長年にわたり当社の生産本部を支えてこられた村本顧問の退職セレモニーが行われました。
まるさん、中村名誉会長からの感謝の言葉と、村本顧問の温かくも力強いご挨拶に、会場は静かな感動に包まれました。
ー 七色の織物を、共に織ってきた人ー
まるさんから村本顧問へ感謝を込めて
村本さんには、57年3か月という長きにわたり、中村留のためにご尽力いただきました。
その歩みのひとつひとつが、会社の土台を築き、今日の私たちにつながっています。
一人の弟子として、そして経営者として、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
私が入社して間もない頃、生産本部室にいた一年目の私に、「ブラえいじや」と声をかけてくださり、工場の中を一緒に回ってくださいました。
その時に見せてくれたのが、作業者一人ひとりにしっかりと声をかけ、表情を見ながら会話を交わす姿。
「声のトーンと顔つきを見れば、相手の状態がわかるんや」と教えていただいたことを、
今でも覚えています。
単なる視察ではなく、人と向き合い、信頼を築く姿勢に、当時の私は強く心を打たれました。
初代留五郎一座の初代座長としても、ジャンボ大根の写真に映る姿はとても若々しく、何より楽しそうでした。
社内イベントにとどまらず、地域の催しやボランティア活動にも積極的で、仕事と人、社会をつなぐ姿勢は、まさに「中村留らしさ」を体現されたものでした。
印象に残っているのは、「頭の中だけで考えず、手を動かしながら考えることが大事だ」という言葉です。思いついたことは、とにかく形にしてみる。
その実行力と行動のスピードが、村本さんの原動力だったと感じます。
アイデアは温めるだけでは意味がなく、動かして初めて価値が生まれる――
その教えは、今のものづくりにも通じています。
また、社外での活動を通じて、社内部門間のコミュニケーションの大切さも説いてくださいました。
だからこそ、フェスティバルやリレーマラソン、留五郎一座など、部署の垣根を越えたつながりが今も根づいているのだと思います。
なかでも、私の心に強く残っているのが「七色の織物」の話です。
社内には営業、設計、生産、本部、さまざまなチームがあり、個々の社員にも個性=“色”がある。
それらが力を合わせて協力し合えば、大きな一枚の織物――
七色の美しい価値を持った成果が生まれる…と。
役員時代にも「もっと部署を越えて連携できたら、さらに大きな挑戦ができる」と語られていた
その言葉には、今も私たちへのメッセージが込められていると感じています。
これからも私たちは、七色の織物を皆で織り上げていきます。
その中に、村本さんが遺してくださった色と糸は、確かに織り込まれています。
そして最後に――
「とんでもない頻度で困るくらい、朗報を届けたい」と思っています。
いつまでも私たちの仲間であることに変わりはありません。
また元気なお姿でお会いできることを楽しみにしています。
村本さん、長い間、本当にお疲れさまでした。
そして、ありがとうございました。

ー 右腕として、共に歩んだ57年 ー
会長から村本顧問へ感謝の言葉
昭和43年に入社された村本顧問。
社内にはまだ生まれていない社員も多い中、57年もの長きにわたって、ものづくりの最前線で中村留を支え続けてくださいました。
平成2年には生産本部取締役に、2013年には常務取締役、そして2024年には顧問として活躍。
その存在は、まさに“会社の柱”でした。
生産本部を率い、現場の声に耳を傾け、時代の変化に応じた体制づくりを先導。
会社としても、大いに頼りにしてきた重要な人物です。
社外でもその手腕は高く評価され、石川県の産業界でも存在感を発揮。
村本顧問なしでは立ち行かない場面が数多くありました。
アメリカ工場、そして韓国工場の設立にあたっては、土地選定から現地の方々との信頼関係の構築まで、ゼロから立ち上げるという非常に難しい役割を担ってくださいました。
特に韓国では、まるで「現地のお父さん」のように親しまれ、工場と深い一体感を築いてくださいました。今も韓国工場のスタッフが「本社に負けまい」と奮闘してくれているのは、間違いなく村本顧問の情熱と信頼の積み重ねがあったからこそです。
私自身にとっても、村本顧問は公私にわたる“右腕”でした。
会社でも、公職の場でも、どれほど支えていただいたかわかりません。
その村本顧問が、会社を離れる日が来る――。
近くにいらっしゃるので、またいつでも会えるのですが、いつも右隣にいた存在がいなくなるというのは、やはり寂しいものです。
長い間、本当にありがとうございました。
この場を借りて、心からお礼を申し上げます。

ー 57年の歩みを、ありがとう ー
村本顧問 退職のご挨拶に寄せて
「57年も働いたんですか?」と、誰もが驚く年月。
けれどご本人は「毎日やるべきことがあったから、あっという間でしたよ。」と穏やかに語ります。
昭和43年に入社された村本顧問。
入社当時は、まだNC機など影も形もなく、汎用機が並ぶ現場に、手書きの事務所。
主力製品はタレット旋盤。いまの製造現場を見たら、当時の方はきっと目を丸くするでしょう。
そんな中で、平成の時代を迎え、従来のロット生産から、1台流しのライン生産へと大きな変革を進められたのが村本顧問でした。
「変化を嫌う声もありましたが、仲間の後押しに支えられました」と、語るその目には、
当時の熱気がまだ宿っているようです。
海外工場の立ち上げも、まさにゼロからの挑戦でした。
土地を探し、現地を視察し、文化も言葉も異なる環境での建設や採用――すべてが未知の連続。
それでも「ひとつずつ形にしていくことが、やりがいでした。」と、柔らかく振り返られます。
粉体塗装やテクノセンター、厚生ホールなどの建設にも携わられ、建築基準法や消防法と格闘しながら仲間と歩んだ道のり。どれも村本顧問の“財産”になったそうです。
そしてもうひとつ、多くの社員にとって思い出深いのが「中村留フェスティバル」や「留五郎一座」。
「会長とふたりで“やってみよう”」と始めたことでした。
がむしゃらに走り、笑い、楽しんだ日々…
そこにも常に素晴らしい仲間がいてくれたと、感謝の言葉を重ねられました。

「会長との時間は、社訓そのものだった。」と話す姿に、57年の歩みの重みがにじみます。
共に苦しみ、共に喜びを分かち合い、社業の発展を通じ社会に貢献しよう。
中村家三代に仕え、会社の変化と成長を間近で見てきた村本顧問。
「今の中村留は、まるさんのもとで着実に変化している。それを見届けられて安心しています。」
と話され、穏やかな表情で新たな人生への一歩を踏み出されました。
そして、最後にこう結ばれました。
「今、私が言えることはただ一つ。ありがとうございました。これが真の私の思いです。」
村本顧問、長年にわたるご尽力、本当にありがとうございました。
どうぞ、これからの第二の人生が実り多きものでありますように。
